ジャンルで探す ポップス ラテンオムニバス ヒーリング フォーク 民謡 クラシック

お客様の声
検索

お問い合わせはこちらから
お気に入りに入れる
めんそ〜れ!(ようこそ、いらっしゃいませ)「沖縄島唄くらぶ」へ はじめまして、高橋直夫(なおと)と高橋浩夫(ひろと)と申します。 数あるサイトの中から私どもを訪れてくださいまして、ありがとうございます。・・・

詳しくはこちら

インフォメーション
沖縄島唄くらぶ

〒531-0063
大阪市北区長柄東2−6−6−1101
代表/高橋直夫
WEBサイト代表/高橋浩夫

なおべぇのココ↓
「沖縄かりゆし日記」

入って下さい見て下さい!ココ↓
ヒロスケの「沖縄ナンクルだより」

TEL:06−6351−0336
受付時間10:00〜16:00(休業日除く)
FAX:06−6351−0336
E-MAIL:info@simauta.jp

JASRAC許諾番号:S0909172140
JASRAC許諾マーク

営業日カレンダー


のカラーの日は
各種対応をお休みさせて
いただいております。

沖縄島唄くらぶでは、売り上げの一部を 「沖縄の自然環境保護」に役立てるため 寄付させていただきます。
初めての方へ
メイン  

めんそ〜れ!(ようこそ、いらっしゃいませ)
「沖縄島唄くらぶ」へ はじめまして、高橋直夫(なおと)と高橋浩夫(ひろと)と申します。
数あるサイトの中から私どもを訪れてくださいまして、ありがとうございます。
このたびの、あなたとのご縁に心より感謝いたします。

「沖縄島唄くらぶ」は私、高橋直夫と、浩夫の双子の兄弟で運営しています。
当「くらぶ」では星の数ほどある音楽CDの中から、「沖縄」をキーワード(沖縄で生まれた曲、
沖縄出身のアーティストの曲、沖縄をテーマにした曲)に、幼少のころから、あらゆるジャンルの音楽を聴き続けて40年以上、
今や音楽無しの生活など到底考えられない私たちが、聴き込んで、

これぞ!と選んだ「運命のCD」をあなたにお届けします。

「運命のCD」とは

「全てのことは最高のタイミングで起こる」と言います。また、「起こることの全てに意味がある」とも言います。
もしあの時、あの場所に出かけていなければ、あの人に会うことは無かったとか、
予定よりひとつ乗り遅れてしまった電車に、会いたいと思っていた
昔の同級生が乗り込んで来たりとか、
あなたも幾つか思い当たることがありませんか?

このように私たちは普段の何気ない生活の中で、
偶然にしては出来すぎじゃないの?
と思うようなことに結構遭遇しているものです。
それを、シンクロニシティー(偶然のような必然)
と呼ぶそうです。
今回あなたが、何億もあると言われるサイトの中から、
当「くらぶ」にいらっしゃったのも、
今必要としている曲に出会うためだった
のかもしれません。

まさにあなたにとってのシンクロニシティー
なのかもしれません。
そしてこの出会いがもしかしたら、
あなたの運命をも変えてしまうかもしれません。
私たちの場合がそうだったように。

「くらぶ」では、あの時あの曲に出会っていなかったら、今とは違った人生になっていたかもしれない。
辛い時、悲しい時、心が落ち込んでどうしようもない時、挫けそうな時に聴いて癒された、
心が楽になった、もう少し頑張ってみようと思えるようになった、元気になって、生きる勇気が湧いて来た。
今幸せだけれど聴いたらもっともっとハッピーな気分になった。

と言うように、聴く人の心に響き、魂が震えるような感動を覚え、生まれて来て本当に良かった、
人生は素晴らしい、と思える。時にはその人の人生観をも変えてしまう、そしてその結果人生そのものをも変えてしまうような、
そんな音楽CDを 「運命のCD」と呼んでいます。

「くらぶ」では、たくさんの沖縄音楽の中から、あなたに「運命のCD」をお届けし、
より幸せで心豊かな日々に貢献できますことを無上の喜びとし、使命とします。

高橋直夫(なおと)です

直夫めんそ〜れ! はじめまして、「沖縄島唄くらぶ」の高橋直夫(なおと)と申します。
ここではどうして私たちが「くらぶ」を始めることになったのか、奇想天外、紆余曲折、数々の奇跡的出会い、
想定外のトラブル、アクシデント、を乗り越えて「くらぶ」発足に至るまでの、波乱万丈の誕生秘話をお話しします。

「沖縄島唄くらぶ」が生まれた理由
なぜ沖縄音楽じゃないといけないの?きっとそう思われますよね。
それは 「命どぅ宝」(ぬちどぅたから)
=「命がいちばん大切」
この言葉に出会ったからです。
2001年4月、最愛の養父を亡くしました。
私は理由あって生後6ヶ月で、
子供のいなかった伯父伯母夫婦の養子となったのですが、
養母は私が11歳の夏に入院、治療の甲斐なく他界しました。

わずか12年足らずしか一緒に居られませんでしたが、
大切に育ててくれた事、楽しい思い出に、
感謝の気持ちでいっぱいです。

その後今日まで、養父は男手ひとつで私を育ててくれました。
プロ野球や、大相撲など勝負事が大好きだった養父は、
自分が監督のつもりで批評したり、自ら土俵の上に居るかのように、身体を上下左右に激しく動かしながら観戦していました。
そんな姿を思い出すと今でもニンマリしてしまいます。

また負けるのが大嫌いで、激しい気性のため、しばしば衝突もしました。 大いに笑い、時には言い争ったり喧嘩をしたり、
兎にも角にも父ひとり子ひとりの生活は、男どうしなかなか楽しいものでした。
そんな和気あいあいの生活が一変したのが2000年12月でした。
数年前から肝炎を患ってはいましたが、見た目はどこが悪いの?と言う感じで、元気そうにしていた養父が
年末に体調を崩し緊急入院。診断は末期の肝臓がんでした。

それから亡くなるまでの4ヶ月間、なんとか助かる道は無いだろうかと、医療関係の本を読み漁り、
セカンドオピニオンを求めたり、新たな治療法を試してみたりしました。生体肝移植の可能性もさぐってみましたが、

もはや病状が進みすぎていて手遅れでした。 本当の病名も告げられず、日に日に弱っていく姿を見るのが辛く、
病室ではなにくわぬ顔で接していても「命の火が今にも消えようとしている」と思うと、
胸に込み上げるものをこらえるのに必死でした。

その日は突然やって来ました。病院から「具合が悪い」と職場に電話が有り駆けつけました。
前日まで、弱っているとは言えちゃんと話もできていたのになんで?と思いながら。
病室に着いた時はすでに息を引き取った後でした。末期の診断を受けた時から覚悟はして来たつもりでしたが、
まさかこんなに急に「サヨナラ」を言う間も無く逝ってしまうなんて…
まだ温かみのある手を握って「良く頑張ったね」と言うのが精一杯でした。

決して裕福ではない家庭の三男に生まれ、年若く仕事を始め、
戦後の物の無い時代を生き抜き働き続けて来た養父。

今は「早くに母さんを亡くして辛かったけど、もっと辛かっただろうあなたは
泣き言ひとつ言わずに私を厳しくも暖かく育ててくれました。
たくさんの楽しい思い出と、大切な教えに感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとう。もう頑張らなくてもいいよ」と伝えたいです。

その後、養父をおくった喪失感でぽっかりと空いた心の穴に、沁みこむように響いたのが
「命どぅ宝」(ぬちどぅたから)=「命がいちばん大切」
と言う沖縄の言葉でした。
それは当時放送されていた、NHKの朝の連続ドラマ「ちゅらさん」の中で、
少年が亡くなった時におばぁが言った言葉でした。
命が大切なんて当たり前すぎて、普段はあまり意識していなかったけれど、養父を亡くして、
その大切な命を失ってしまった事実に改めて愕然となってしまいました。

同時に「命は宝」と言う、なんてストレートで深い言葉なのだろう、そんな言葉を話す場所に行ってみたい、
そこに暮らす人々に会ってみたい!と思ったのです。 どうしようもない喪失感で、心では「できることなら、
もう何もかも放り出して何処かに行ってしまいたい」と叫んでいたにもかかわらず、
当時、食品関係の店を経営していた私は、 従業員、取引先、等の事を考えると、
仕事をほっぽり出して沖縄に行くなんてとてもできませんでした。

そんな悶々とした日々も、仕事に忙殺されているうちに、どうしても行きたかった沖縄が、行けたらいいな、
そのうち行けるだろう…となり、あっと言う間に3年が過ぎてしまいました。

2004年になり仕事上の幾つかのトラブルや、自分が体調を崩した事などから、今のままの仕事、
生活を続けていていいのか、養父の死をきっかけに命には限りがある事、
人生は一度きりである事を思い知ったはずなのに、これでいいのかよ!?と言う

心の底から突き上げて来る感情に抵抗できなくなって行きました。そしてついに、
考え抜いた末に2005年春で今の仕事をやめて念願だった沖縄に行こう!と決めたのでした。

とは言え将来に対する明確なものは何も無かったです。ただ、もういい、この先どうなるか分からないけれど、
これからの人生は自分自身に正直に、自分のハートの声に耳を澄まして、心のままに生きて行こうと。

2005年4月 店を従業員に譲り、晴れて(?)フリーランスになった私は気分爽快!
一点の曇りも無い晴れやかな気持ちで、憧れの沖縄へ飛び立ちました。

まさかこの旅が、自分達の人生を変えるきっかけになるとも知らず。
浩夫との野郎ふたり旅は、
沖縄初心者ならではで、
見るもの聞くもの食べるもの飲むもの、
その全てが珍しく、
日本でありながらプチ外国旅行のような気分で、
初日は那覇市内を歩き回りました。

夕暮れになり、
歩き疲れてそろそろお腹の空いてきた私たちは、
ガイドブックでチェクしておいた食事所へ。

ところが、なんと店の前には長蛇の列。
それもそのはず、
歩き回ってすっかり夕食時のピークになっていた事と、
観光客に人気の有名店だった事から無理も無いことでした。

行列に並ぶのが何より嫌いな私たちは、仕方なく他の店を探す事に。
しばらく近くを探してうろうろ、そのうち少し離れた路地に入ったところ、
どこからとも無く「てぃんとん、てぃんとん」となんともここちの良い三線(さんしん)の音が…
その音色に誘われてすぅ〜と吸い込まれるように入った店は、
石垣島出身のご夫婦が営まれている沖縄家庭料理の店で、
毎週末、金、土に生の沖縄島唄のライブが楽しめる食事所でした。

旅行中唯一の週末那覇ステイだった初日、それも予定していた所ではなく、
たまたま入った店で生ライブを聴けるなんて、 「めっちゃラッキー!」と大喜びで
珍しくて美味しい沖縄料理にオリオンビール、泡盛もすすみ、気分は最高。
そして何と言っても、生の唄三線の素晴らしさ。特に私には名曲「芭蕉布」が心に沁みて、うるうる来てしまいました。
その夜は泡盛のここち良い酔いと、島唄に夜が更けるのも忘れて浸っていました。

楽しい日々は過ぎるのも早いもの。沖縄を離れる前日、借りていたレンタカーを返しに行ったところ、
担当のU君が「運転中にカーラジオでIやMの唄を聴きましたか?」と、「いや、聴いてないねぇ〜」と私たち。

「Iは僕の学校の後輩で今月アルバムを出したばかりで、良い唄なので聴いて。Mも良いからぜひ」と。
薦められるがままに彼らのCDを含め数枚を土産に買って帰りました。その後じっくり聴いて、感動!
沖縄には古典民謡だけでなく、現在もこんなに素晴らしい曲が生まれているんだと、
心に沁み込む歌詞とメロディーに癒され、すっかり魅了されてしまいました。

あれから4年 抜けるような青空、燦燦と降り注ぐ太陽、エメラルドグリーンの美しい海、
美味しい郷土料理にトロピカルフルーツ、オリオンビールに泡盛、少しシャイだけれど人懐っこく人情の厚い島の人たち。

そして素晴らしい音楽。にすっかり魅せられてしまい何度も何度も通っています。
この4年間に私は3人目の大切な人、実父を亡くしてしまいました。
一緒に暮らしたのは、晩年わずかな間でしたが、やはり父は父。別れの時、心のなかで言いました。
「この世に送り出してくれてありがとう」 そんな私の痛んだ心を癒してくれたのは今度も沖縄でした。

なかでもその音楽は私の心を受け止め、癒し、励まし、やがて生きる勇気と元気を与えてくれました。
初めて沖縄を訪れた時には、自分の心の痛みから逃れたい気持ちで「戦争で大切な人を亡くした方たちは、
その悲しみをどうやって乗り越えたのか聴いてみたいな」と思っていました。

しかし、「平和記念公園」や「ひめゆりの塔」などを訪れ、遺品と向き合った時、
また6月の「沖縄慰霊の日」に「平和の石礎」に刻まれた亡き人の名前にすがって涙する方たちを見た時、
それは赤の他人が軽々しく踏み込んではいけないところなのだと思い知らされました。
決して語られる事の無い深い悲しみを、今も胸の奥に抱えて生きておられるのだと。

戦後の混乱した物の無い時代、島の人々はパラシュートを三線に張って、
唄と踊りで、痛んで弱った心を励まし元気づけたそうです。「なんくるないさ」と。

そうした歴史を持つ島の人たちの、音楽に対するDNAはこんにち生まれる曲にも受け継がれ、
素朴だけれど力強く深い歌詞、どこか懐かしいそのメロディーで、こんなにも癒され、励まされ、元気をもらえるのでしょう。

そんな「力」を持つ素晴らしい沖縄の音楽を、まだ知らずにいる、たくさんの人たちに知らせたい。
まだ知られていないたくさんの良い曲を、もっと広く多くの人たちに聴いて欲しい。
その音楽を今必要としている人たちに届けたい。そして幸せになってもらいたい。そう強く思ったのです。
2001年4月もしあの時すぐに、仕事をほっぽりだして沖縄に行っていたら、
はたしてあの週末だけの生の島唄ライブを聴けていたでしょうか?

そもそも、あの店に行っていたでしょうか? たくさんある沖縄の、たまたま見つけたレンタカー店で、
たくさんいるスタッフのなかからU君が私たちを担当してくれていたでしょうか?わざわざCDの紹介をしてくれたでしょうか?

なにせ彼は本土からのUターンで、転職して来たばかりだったのです。
聞くところによると、その後別の仕事に転職したそうです。 ぐずぐずと4年もかかって、
2005年の4月のあのタイミングで行ったからこそ奇跡的な出会いが実現したのではないでしょうか?
あの時、あの全ての出会いが無ければ、沖縄音楽にこれ程深く係わっていたでしょうか?

「全てのことは最高のタイミングで起こる」 まさにあの時の沖縄旅行は、そうなるべくしてそうなった、
私たちにとってのシンクロニシティーだったのです。 ですから、こうして「沖縄島唄くらぶ」を立ち上げて、
皆様に沖縄の音楽CDをお届けすることができるのも、それが私たちの使命だからだと、今では確信しています。

なぜCDなのか 音楽配信が盛んになって、もうCDは古いよ。
と言う方も多いこんにちですが 総合芸術であるCDの魅力はまったく色あせません。

アーティストが心血を注いで生み出した一曲一曲を、その並べ方まで考えて創られたアルバムは、
最初から順番に聴いてこそ、その真価が判ると思います。 勿論好きな曲だけをダウンロードして聴くのも良いですが、
私たちは、一時のブームでヒットし、やがてその存在すら忘れられて行く、そんな消費される音楽ではなく、

何年経っても色あせない、末永くずっとそばに置いて愛でる事ができる、
聴きたいと思った時に取り出して何度でも愛聴できる、お気に入りのジャケットを飾ったり、眺めたりしながら、
購入した時の事を思い出したりできる、唯単に音楽を聴く手段としてだけでは無い、
コレクションとしての魅力も合わせ持つ、CDと言うパッケージソフトにこだわり続けます。

買ったCDの包装フィルムを剥がすのももどかしいくらいに取り出して、
セットしPLAYボタンを押す時のあの期待感とわくわく!
そうしてスピーカーから出て空気を振動させて耳に届くその音楽は、格別です。

たとえそれがCDラジカセであっても。 あなたも、溢れ出る泉のように清らかな音楽の流れに、
身体を浸してみませんか?沖縄の音楽に癒されてみませんか?

高橋浩夫(ひろと)です

浩夫めんそーれ。 はじめまして「沖縄島唄くらぶ」の高橋浩夫(ひろと)と申します。
元々、某金融機関のサラリーマンだった私が何故「沖縄島唄くらぶ」を始めるに到ったのか…
何をお届けしたいのか…お話してみたいと思います。

可もなく不可もない、ごく普通のサラリーマンだった私は、
特に目標も目的も無いまま、
ただ漫然と日々を過ごしていました。
否、むしろ現実から目を逸らし、
自分の世界に引きこもっていた…
と言うべきかもしれません。

そんな私に転機が訪れたのは、
2003年の暮でした。
高知に住む父が脳梗塞で入院したからです。
元日、朝一番の飛行機で大阪から高知へ向かった私に病院の先生は
「5年も10年も生きられる身体ではありません。
いつ何が起きても不思議じゃない状態なので、
心の準備をしておいてください」と、事実上の死の宣告をされたのでした。

それまで「人間はいつか死ぬもの」と頭では理解していたつもりでしたが
「父の死が迫っている」という現実を突きつけられ心が乱れました。
身障者であるが故に子供の頃から苦労を重ねた父。
それゆえ思いやりにあふれ優しかった父。
そんな父に、満足な親孝行もしてこなかった自分が悔しくて情けなくて、
その夜は双子の兄(直夫)と共に泣きました。

この時ほど「後悔先に立たず」という言葉が骨身に沁みたことはありませんでした。
父の病状は比較的安定していましたが、容態が急変しても死に目に会えない可能性があるため、
その後は時間の許す限り高知へ通うことにしました。
が、寝たきり状態の父は左半身が麻痺し、食事も、喋ることもままならない状態でした。

それでも懸命に生きている父の姿を見ていると「今のままで良いのか?全力で生きているか?」と
問いかけられているような気がして、人生について真剣に考えるようになったのです。

「人生は一度きり、命には限りがある。
時間を大切にして自分らしく生きなければ…」


強く意識するようになった私は、職場でも「唯々諾々と命令に従い、ただ単に一日が終われば良いという上司」や
「力ずくで服従させようとする会社の非人間的なやり方」に反発し、ことあるごとに衝突するようになっていました。

そんな折、兄と二人で初めて訪れた沖縄で「運命的」ともいえる出会いが待っていようとは…。
沖縄に着いて早々、那覇の町なかを歩いていると、どこからともなく「三線(さんしん)」の音が聞こえてきたのです。
音の出所をたどって行くと「電気屋のおじさん」が暇にまかせて三線を爪弾いているのでした。

「のどかだなぁ…」と心が和むと同時に「沖縄に来たんだ」という実感が湧きました。
また、昼食に利用した飲食店のお姉さんをはじめ、市場や土産物屋の人々が「双子ねぇ!?そうねぇ!?」と
気さくに声をかけてきたのには驚き、まるで「ちゅらさん(NHKドラマ)」の世界にいるみたい…と思ったものです。

夕暮れ時が迫り、一日じゅう歩き回った疲れと空腹でヘロヘロになりながら
予定していた料理屋にたどり着いてみると、店の前には行列が!
予約していなかった私達が悪いとはいえガックリ…。

気を取り直して再び歩き出すと、またもや三線の音が聞こえてくるではありませんか!
ふらふらと三線の音に誘われるままに辿り着いた「郷土料理の店」では、
ちょうど「島唄のミニライブ」が始まったところでした。

目の前(目と鼻の先)で初めて聴く「島唄」は「疲れた身体と心」に心地好く、
泡盛の酔いも手伝って最高に楽しい夜となりました。

偶然(今から思えば必然?)にも初日から島唄ライブを聴く機会に恵まれ、
幸先よくスタートした沖縄旅行は、多少のハプニング(実は旅の醍醐味)を交えつつ順調に進み、
いよいよ最終日を迎える事に… ここで「沖縄島唄くらぶ」を始めるきっかけとも言うべき
「運命的」な出会いが待っていたのです!

我々の担当だったレンタカー会社のU君が、営業所から宿泊しているホテルまで送ってくれる車中で
「Iって唄者(うたしゃ)知ってます?僕の中学校の後輩なんですけど…」と
言って西表島出身の唄者を紹介してくれたのです。

運よく那覇市内でCDを手に入れた私は、帰阪後さっそく聴いて思いました。三線の優しい音色、
そして心に響く唄…「そうそう、こんな曲と出会いたかった!」と…。

その後も次々と、偶然とは言い難い、ある意味奇跡的な「島唄」との出会いを繰り返すうちに
「こんなすばらしい沖縄の音楽を皆に紹介したい!否、紹介するのが使命だ!」と思うようになりました。
途中、父の死や想定外の出来事が重なり、これまでの道のりは決して順調ではありませんでした。

でも「島唄」が私の心を癒し、慰め、そして励ましてくれたおかげで、
この度こうして「沖縄島唄くらぶ」を始めることができました。

あらためて沖縄に、島唄に、感謝、感謝です。 私たち兄弟を魅了してやまない沖縄ですが
「米軍基地」「高い失業率」「低い所得水準」等々、多くの問題を抱えています。
でも、たくさんの子供たち(ホントに多い)の歓声であふれています。お年寄りが大切に(尊敬)されています。
おおらかで笑顔の素敵な人がたくさんいます。
「沖縄の人々の暮らしこそ本来あるべき人間の生き方」のように感じます。

きっと「心豊かに暮らしている」からなのだと私は思います。
ある唄者が言いました。「沖縄の音楽には心がこもっている」と…。

「沖縄島唄くらぶ」では、昨今の一時的に流行ってすぐ消えていく(消費される)音楽と違い、
5年先10年先でも聞ける、否、聴きたくなる音楽…手元にずっと置いておきたくなるCDをお届けしたいと思います。

願わくは、あなたの人生観をも変えてしまうような「運命」のCDとの出会いが待っていますように…。